香港で展開されている大規模なデモ活動は、ついに臨時政府を香港に樹立した。対する華国政府と香港当局は彼らに対し対話ではなく武力による鎮圧を行おうとしている。民主主義と専制主義、この対立について振り返る。
①香港の前史
香港は華国が成立する以前、清帝国の頃にイギリスに永久租借地や期限付き租借地として引き渡されたことにより、華国の社会主義体制から離脱した歴史を歩んできた。
1997年、イギリス政府は香港における期限付租借が終了することから、清帝国を継承する華国と返還に向けた交渉を開始。香港基本法により50年間、イギリス式統治を維持する「一国二制度」を条件に永久租借地を含め返還された。
②国家安全維持法、選挙改革、そして行政長官選挙
華国で王遠平(Wang Yuan-ping)政権が成立すると、香港に対するアプローチが「一国二制度」の維持から「一つの華国」を基調としたプロセスの実行に変化していくことになる。
この背景として、王政権は香港が有する自由な社会を華国の統治として容認する気はなかったことが挙げられる。
イギリス式統治により自由な言論が保障された香港では、多くの反政府系言論が展開されていた。特にこれらは上海幇(Shanghai-Bang)と呼ばれたリベラルな政権から王政権に移行する頃に最盛期を迎え、王政権を毛沢東(Mao Tse-Tung)と同じ独裁者として批難する風潮が生まれた。
香港に対する言論への介入はここ数年で勢いを増しており、21年に施行された香港国家安全維持法が付与する新たな権限の下で、香港警察は①令状なしでの家宅捜査、②インターネット企業へのコンテンツ削除命令、③国家の安全を危うくすると疑われる人物に対する渡航制限と資産押収、④香港外での政治団体からの情報請求、⑤通信傍受と監視活動、などが可能になった。そしてこれの成立直前に行われた大規模なデモ活動は、全てこれが可決された直後にこの法に基づいて強制的に解散させられた。
またこれと同時期に行われた香港の選挙改革により、いわゆる民主派議員は選挙に当選できなくなり、香港は親華派のみで政治が動かされるようになった。
そして今回の行政長官選挙である。香港の公安当局から出馬した唯一の候補が信任投票で新たな長官に決定されるという華国政府のシナリオは、香港における一国二制度の事実上の終焉を示すことになった。
③有権者の反抗、予期せぬ事態へ
しかし華国政府のシナリオは、選挙直前に起きた一つの事件をきっかけに大きく崩れることになる。当初、選挙期間中メディアに圧力をかけるという意味合いで行われた、香港の大衆紙「葡萄日報」の記者2名の拘束は、デモ鎮圧以降インターネット空間で抵抗を続けていた民主派に「最後の反抗」を決意させることになってしまった。彼らのデモ活動は本来「愛国的」出会ったはずの有権者の一部を動かすことになり、信任に必要な過半数の賛成票を割り込む事態となった。
有権者の1人は匿名でこう答える。「確かに私は華国の愛国者として選ばれたのでしょう。しかし私が愛国な理由は、華国との関係を保ちつつ香港の自由を模索するということでした。この考えは多くの有権者の根底にありました」。
華国政府と香港当局は選挙結果が「外国勢力と分離独立勢力に有権者が唆された結果」だとして無効を宣言。この対応が民主派らとの対立を決定的にし、対話による解決という可能性を急激に失わせる事態へとエスカレートさせた。
④繰り返される「最悪の事態」海外に理解求める
香港で治安を守る武装警察の統制が崩壊し、臨時政府が樹立された。華国政府はもはや対話による解決を放棄し、人民解放軍の投入に向けて動いていることは明白だ。
外交部が繰り返す「最悪の事態」というのは、あくまでもこの事態を招いたのは「分離独立勢力」によるものであり、国家として当然の対応をするに過ぎないと海外に訴え、理解を求めるという意図があるのだろう。
香港における民主主義と専制主義の戦いが佳境を迎える中、事態はどのように終結するのか。「第二の天安門事件」とも言われている「最悪の事態」を避けることはできないのか。香港に暗い影が落とされている。
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